AW物語 8速FRA/T編

AWの8速FRオートマチック(以下8速FRA/T)は2006年7月に量産化され4代目レクサスのLS460に搭載されました。

この開発が、また大変でした。

AWレクサスLS430用に2003年7月に6速FRA/Tを市場に出した同年にベンツが2003年に7速FRA/Tを市場に出して、AWおよびトヨタは衝撃を受けた。世界より劣っている...と。

レクサスLS460用に2003年7月 の量産の1ケ月前に「次は8速のFRA/T」との話があり、6速から7速を飛び越え次のレクサスに向け8速の開発を急遽することになった。

しかし、次のレクサスの立ち上がりは3年後の2006年7月であり、今からA/Tの構想図を企画するところからではとても時間が足りない開発でした。

特に制御。またケースも従来はコンバータハウジング+ケース本体+エクステンションと3ピースだったのを、一体ケースにするチャレンジな取り組みでした。そのケースも外製でしたのでサプライヤーの協力を得るのがとても大変でした。

そしてできたものは、卓越したフィーリングのA/Tでインテリジェントの制御が組み込まれている。レクサスLS460は日本カー・オブ・ザ・イヤー並びに世界カー・オブ・ザ・イヤー を受賞した。

この経験を活かし、今では10速のFRA/Tが開発され市場に出されています。

AW物語 使命編

AWの諸先輩の方々は”使命感”を大変持っていたと思います。

使命

”あるべき姿”と言ったり”役割”とか言ったりしますが、使命感が強いと思います。

そのように感じるのは、オートマチックトランスミッションの専門会社であるアイシン・ワーナーの目指す姿は何ぞやと追及し、そしてその姿に達するように全力を尽くすところは使命感を感じます。

その目指す姿とは

1)自動車のユーザーに優しい燃費の良いオートマチック
2)変速ショックやノイズの少ない乗り心地の良い オートマチック
3)自分の意志で行けるナビと連携した オートマチック

その姿を目指し、オーバードライブL-UPクラッチスリップ制御、多段化など燃費向上の開発や、HSカーの開発やVNSの開発をしてきた。

まさに情熱を超えた使命感を自ら持ち突き進んできたと思います。

それらの開発するには

「一枚の魅力ある基本設計構想図」

をもって一枚の絵でその開発品の素晴らしさを伝えようとしてます。

使命と言うと軍事っぽいですが、他にも軍事的な用語が使われていました。それは「指令書」です。最近はこの言葉は使われていないようですが、古い方は”設計切替依頼書”のことを「指令書」と言ってました。つまり ”設計変更切替依頼書” が発行されたら、使命のように事を成し遂げなければならないと取り組んでいたようです。

AW物語 ACTIVE21編

 ACTIVE21とは部品表(以下BOM)を基幹としたWeb調達の機能も含んだAWのコンピューターシステムです。2001年に立ち上がり今でも世界No1のシステムだと思っております。

しかし完璧とまではいかなかったです。

AWBOM は技術が作る設計のPart Listとそれをもとに生産部門が製作する BOM の2本があります。他社ではさらに所要量計算するための BOM や原価計算するための BOM などいくつもある場合がありますが、AWは設計と生産部門の2つです。しかしこの2つの BOM は繋がってなく、設計が作成した Part List を紙で出して、再度コンピューターに入力するムダな作業となっています。

なぜそんなことになるのかと言うと、まずは設計のコンピューターと生産部門のホストコンピューターは繋がっていない。また、設計の Part List に対して、生産上の都合による品番設定が発生するためである。生産上の都合とは、

1)ある品番を生産するのに工程を分けるため、品番を追加する。
2)ある品番を2社複列で生産するため識別用の品番を追加する。
3)ASSYする順番を変えるため、ASSY品番を追加する。

などがあります。しかし調達システムは2001年に立ち上がったシステムですが未だに世界NO.1と思います。

コンピューターシステムは理想を追求すれば素晴らしいものはできますが、運用側が追従しなければ、ただの箱になってしまい、せっかくお金をかけたのにゴミ箱になってしまいますが、運用の実力に合わせ立ち上がってます。

ACTIVE21 の良い機能を以下に上げます。

1)特に良い機能は、サプライチェーンの機能で、ある部品を作っている サプライチェーン を原料の製造場所レベルまで登録できます。逆にその原料の製造場所から逆展開し、その製造場所で作られた全ての部品および製品をリストアップできます。さらに、ある地域を特定し、その地域のサプライヤーをリストアップすることもできます。

2)申請書類の回覧状況が外のサプライヤーから把握できることです。いままで社内へ回覧する書類は途中で行方不明になってしまってましたが、この機能により申請書は行方不明になることはなく、また今どこで検討中なのかリアルタイムで社外含め、社内の人も把握できるようになり直接停滞中の人にフォローすることができます。その人が長期で不在の場合は代理の処理もできます。

3)サプライヤーへの発注がcsv形式のデータでサプライヤーが入手できることです。これによりサプライヤーは自社で自由に生産計画の検討に活用することができます。またカンバンの発行状況もリアルタイムにサプライヤーでわかり、発行された時点で自社で把握できるので、トラックが戻ってくる前に出荷準備ができ、また納入した検収結果もリアルタイムでわかります。

4)試作などの品番と価格の登録以外の価格を承認する機能で、今までは単価登録書の 光学的文字認識 (以下OCR)を印刷し、価格を手書きし、1枚づつ承認印を押印し、 OCR 機に読み込ませていましたが、これをコンピューター画面上にしたので、印刷廃止し、一括承認することができるようにし、 OCR 機への読み込みは廃止しました。

OCR を印刷し、価格を手書きし、1枚づつ承認印を押印し、 OCR 機に読み込ませていましたが、これをコンピューター画面上にしたので、印刷廃止し、一括承認することができるようにし、 OCR 機への読み込みは廃止しました。

立ち上がるのには、関係部署と利害関係が大変あり調整が大変でした。

推進リーダーの服さんがとても優秀でしたので良い物が今でも使われてます。

AW物語 エクォス・リサーチ編

エクォス・リサーチとはAWの先行研究開発部門である。

エクォスはラテン語のEQUOSであり意味は馬です。つまり馬のような自分の思ったように乗ることを目指す研究をすることであります。

その概念図が下図の「柔軟な駆動機構」に表してます。

ただし、 エクォス・リサーチ は馬の走りだけを目指しているのではなく自由な研究開発をしています。

エクォス・リサーチ は最初は7人の研究員でスタートしてます。最初のメンバー7名は社内の尖った人が選ばれたそうです。普通の考えでは画期的な発想は出来ないとのことで。

また研究室もAWの本社ではなく、東京の秋葉原に拠点を置きました。その理由は、安城では日々の業務に引っ張られることがあるので、物理的ない離し、東京の電気の最先端の秋葉原で世界の動きに触れるとのことでした。

トヨタで東京勤務経験者の西さんが言ってました。

「東京はいつも大嵐で大波だ。しかし、名古屋に来ると普通の波になる。さらに安城に来るとさざ波になっている。」

と言ってました。東京はさぞいつも激動なのだと思いました。

さて、 エクォス・リサーチ は最初は7人の研究員 は”7人のサムライ”と言われていました。彼らの開発してきたものがすごい。以下に上げます。

1)ボイスカーナビゲーション(略してVNS)
2)ホイールインモータの電気自動車(略してHSカー)
3)ハイブリッドシステム
4)光触媒式空気清浄機
5)磁気浮上走行システム「EQUOS-LIM-CAR」
6)燃料電池システム

である。1)~4)は実際に商品化されている。5)と6)は商品化されていないが、5)の 「EQUOS-LIM-CAR」 はすごい発想だと思いました。まるで未来の走行の姿のようでした。下にデモの写真を張り付けました。

この 「EQUOS-LIM-CAR」 は4つのタイヤに磁石が組み込まれており、道路面に磁石をはめ、その道路上で4つのタイヤが回転するとリニアカーように浮上し走行し、その磁石の道路から外れると、普通の自動車のように走るコンセプトのシステムである。

AW物語 電子制御化

 初期の オートマチックトランスミッション (以下A/T)は油圧で全ての制御をしていた。しかし、A/Tが2速から3速へ、そして4速へ多段化、更に燃費向上のためのオーバードライブ(以下O/D)機構やロックアップクラッチ(以下L-up)機構を追加していくと、油圧制御だけでは成り立たなくなるのを見込んで、電子制御化を早くから取り組んだ。

 しかし当初トヨタ向けについては電子制御関係は日本電装(以下デンソー)が担当したので、トヨタ向け以外の顧客に対し取り組んだ。その姿勢はA/TはA/Tを制御する機構含めA/Tとして品質保証をする姿勢でした。

 A/Tはエンジンの回転数と連動しているので、エンジンの制御の一部としてA/Tの制御を入れる考えと、エンジンの制御と別にA/Tの制御を独立するタイプがありましたが、アイシン・ワーナー(以下 AW )としては、A/Tを製品保証する姿勢から、A/T制御をオートマチックトランスミッションの一部として顧客に提案し採用となりました。

 しかし、今まで全く電子制御のことをやったことがない AW の人がゼロから電子制御を開発から生産までするのは大変な苦労をしたとのことです。電子部品のメーカーからは「AWは一体何を考えてるのか?」と、まともに相手をしてくれなかったそうです。しかし、努力を積み重ねモノにして、その発展としてナビゲーションシステムを開発・生産することができるようになりました。

AW物語 低燃費化

 豊田英二さんが1950年アメリカを訪問した際に、アメリカは既にモータリゼーションとなっており、広大な土地に多くの車が走っている状況でした。

 日本と違って、アメリカのガソリン価格は安く、ガソリンをがぶ飲みしてドンドン車を走らせる状況でした。それを見て日本人である豊田英二さんは、

燃費の良い車を作らなくては。

と思ったそうです。それを受けてアイシン・ワーナーはマニュアルミッション(以下M/T)より当時燃費が悪いオートマチックトランスミッション(以下A/T)の燃費を良くする開発をしました。それが、

1)2速から3速のオートマチック
2)オーバードライブ
3)ロックアップクラッチ
その後、燃費向上のさらなる開発をいくつも量産化してきました。

 そのたゆまない努力で幾つもの燃費向上の取り組み積み重なり、今では欧米のA/Tと比べアイシン・エィ・ダブリュ(以下AW)のA/Tは圧倒的に優位になった。

 最初に、燃費向上に目を付けた豊田英二さん、そして其の意を汲んだ豊田稔さんは先見の目があったと思います。

AW物語 Zプロジェクト

 1970年代から普通乗用車が大型から小型自動車に移り変わってきた。それに伴い駆動方式もFRからFFに移り変わり、トヨタ自動車もその波に乗ってきた。

 しかし当時アイシン・ワーナー株式会社はFRのオートマチックトランスミッションし(以下A/T)か生産していなかった。工場はFR A/Tの生産でとてもFFのA/Tを生産するスペースはなかった。

 トヨタ自動車は駆動機構は自動車の重要機能ユニットと捉えトヨタの内製でFF A/T生産すると決定された。 トヨタ自動車は衣浦工場で生産するとなった。

 第一ラインはトヨタ自動車の衣浦工場で立ち上がり、そして第二ラインをアイシン・ワーナーで生産することなった。アイシン・ワーナーはその為にFF A/T生産工場として第二工場を新築しました。

 当時アイシン・ワーナーにとって強烈な衝撃だった。まず、これからの乗用車がFRからFFに変わっていくとなると、FRしか生産していないアイシン・ワーナーの将来はない。そこでFF A/Tの生産をトヨタ自動車になってしまったら、アイシン・ワーナーの生きていく未来はなくなるので、絶対にアイシン・ワーナーもFF A/Tの生産を成し遂げなければならない。そこで絶対に失敗は許されない、後がないプロジェクトとなった。

この後がない意味でアルファベットの最後の文字Zをとって

Zプロジェクト

と命名された。当時のアイシンワーナーの人たちは、「絶対にトヨタ自動車より良いものを作るぞ。」と皆のベクトルが一緒になって取り組んだそうです。

AW物語 ハイブリッド編

実はハイブリッドの開発はトヨタよりAWの方が先にしておりました。約今から20年前ぐらいに試作の値決めを私もしておりました。今のトヨタのハイブリッドにはAWの特許がたくさん使われているそうです。

 ハイブリッドの開発の前にAWは電気自動車の開発もしておりました。AW開発のトップはハイブリッドのニーズは少ないと見て電気自動車に力を入れていました。開発トップはハイブリッドの開発担当者に「いい加減ハイブリッド(当時は回生機構)よりも電気自動車に力を入れろ」と指示をしても、その担当者はハイブリッドの開発提案を訴えて続けて聞かなかったそうです。とうとうトップも怒り出すしだいで、中間の上司がその担当者に「トップを怒らせたらだめだ、もっとうまくやれ!」となだめていたそうです。

 そんな状態で、こつこつと開発を進め特許もたくさん取得していったところ、トヨタがプリウスを発売しその時初めて、トップがハイブリッドの必要性を認めたそうです。

 その開発をずっと続けてきたおかげでAWにもハイブリッドの仕事が来るようになりました。

 しかし、あんのんとしてはおれず、ハイブリッドは電気部分が多くデンソーも織機も、またトヨタ北海道、九州などトヨタグループが狙っています。とくにデンソーはAWをナビの件で目の敵にしているようです。

AWも牙城を固めるため50人ぐらいトヨタに開発者を出向させています。それぐらいトヨタをサポートしないと仕事がこないようです。

 ハイブリッドの機構は駆動部と制御部に大きく分かれます。駆動部は10~15万円ぐらいで、そのなかでもモータで半分ぐらいです。ところが制御部がとても高く、たったファイルボックスの大きさで30万円ぐらいです。これを1/4にしようと取り組んでいますが、デンソー、織機包囲網でトヨタに入れないです。技術へ出向も入らせてくれないようです。

AW物語 ホイールインモーター編

ナビ開発物語りでもお話ししましたが、技術がオートマチックの「あるべき姿」を模索しておりました。その結果たどり着いたのが、オートマチックは自動車の運転をとても楽にする役割である=つまり究極のオートマチックの「あるべき姿」は自分の思ったように走る姿が「あるべき姿」のオートマチックであると結論をだしたそうです。その姿は“馬”をイメージしました。馬は前にも後ろにも進みまた真横にも進めます。

 その動きを実現するには自動車のタイヤ4本にそれぞれモータを付け、そのモータが方向を変えることで真横移動もできることができるホイールインモーターを実際に試作も作り、トヨタさんに提案をしました。

 その結果、愛知地球博などで登場したi-Realなどのモータ部にAW製のモータが使われるようになりました。ほかにもe-comやゴルフ場のカート(旧アラコ経由)などにも使われています。

AW物語 空気清浄器編

 AWは東京に開発部署を設けております。これは他の話でも出てきました諸戸さんが、安城の田舎におっては情報が遅くゆったりしている。日本の最先端の技術が集まっている東京に、AWの技術のとがったものを何人かあつめて研究開発をしろと、指示があり東京に研究部署を設けました。

 そこで、ナビ、ハイブリッドが生まれ、空気清浄器も生まれました。

 空気清浄器は当初、本当にAWが取り組む商品かどうか検討しました。そこで活用したのが世界的に有名な外資系の経営コンサルタント会社“マッキンゼー”です。

AWが取り組んでいる開発で次に仕掛ける商品は何か?というテーマで検討した結果、開発中のなかでデファクトスタンダード(見本)となる技術は何かと検証した結果、とても良い性能の空気清浄器であるとなり、空気清浄器を新たな事業としました。しかしながら大変高価なものとなったので、まずはとても高い家ならば高い空気清浄器でも売れるだろうとトヨタホームに取り付けるようにしました。しかしながらやはり価格がとても高く1台50万円ですので、台数が伸びず、今では撤退となりました。このように失敗作も当然あります。

 途中では、車載用にも検討しましたが、空気清浄器ごときでAW製はとても高いものになるということで採用されませんでした。今はナノeの搭載が広がっています。目の付け所は良かったですが、価格が問題でした。このようにとても良い性能であっても価格が消費者に受け入れなければ売れません。

 技術開発は良いものを安くするのが重要です。

AW物語 ナビ編

AWは元々はオートマチック専門会社です。そんな会社が何でナビを始めたか疑問に思っている方が多いので今日は、その背景を説明します。

 他の話でも出てきました諸戸さんが技術のトップをやっていました。そこで究極のオートマチックの「あるべき姿」を模索しておりました。その結果たどり着いたのが、オートマチックは自動車の運転をとても楽にする役割である=つまり究極のオートマチックの「あるべき姿」は自分の思ったように走る姿が「あるべき姿」のオートマチックであると結論をだしたそうです。すると自分の思ったように走るためにはどうするかというと、自分の思いで自動的に案内してくれる機能が必要だとことでナビをオートマチック機能の延長線ということで開発を始めたのが30年ぐらい前です。

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 ところが、トヨタからしたらオートマチック専門会社のAWが何をいまさらナビを!気でも狂ったのか!とまで言われていました。

初期のナビはデンソー製でして、クラウンに搭載されていました。ところがこのナビの品質がとても悪く、師崎方面を車で走っていると、いつのまにか海の上を走っている状態になって、高級車のクラウンなのに使い物にならないとのことでした。

そこで、AWとしても何とかトヨタさんに喜ばれるナビを提案しようと頑張っていましたが、当時のデンソーからはAWができるわけないとタカをくくっていたようです。

当時のナビのAWの開発者も大変頑張ったそうです。トヨタの技術トップへ連日夜遅くまで打ち合わせをして、

打ち合わせ終了後AWへ戻り、それから打ち合わせをして次の日に宿題事項について回答をするなど、続いていたそうです。そんなに頑張っている姿を伝えれたからお客さんも付き合ってくれました。

 あるとき、トヨタ側から「いちいち画面など見ておれない、危ない」とヒントを得て、AWより「声が出るナビ」を提案したところ、これがとても評判がよく、そのあとはスイスイといったようです。それまでは色々な提案をしており、たとえば、「ナビの画面と、実際に見る道路の映像が違う。」との指摘に対して、日本中の交差点の写真を撮りに行き、ナビに入れて試作をしていたそうです。

 そうやって92年にトヨタ最高級車種のレクサスに初めてAWのナビが搭載されました。当時のAWのトップが振り返ってみて、なぜAWがデンソーを差し置いてナビを成功させることができたかを考えその答えを教えていただきました。

 それは、AWは頭の悪い奴ばかりで、できない、無理ということがわからないからとにかくやってみた。がむしゃらにやってみたとのことです。ところがデンソーなど頭の良い人たちは、初めからできない理由を理路整然と並べてできないことをかも立派に説明する。ところがAWはバカバカなのでとにかくやってみた。

 当時AWのトヨタのバイヤーはトヨタの元社長の渡辺さんでした。当時AWがナビをやっていたことにとても不快感をもち、AWの提案書類を投げつけたそうです。そのことに対し渡辺さんはトヨタの社長になってAWへ来たときにみんなの前であやまったそうです。AWの技術開発力は素晴らしい。とのことです。 ちなみにAWの20年前は知名度もなくリクルートしてもろくな人が集まらなかったそうです。最近になり知名度も上がり少ないですが東大などがはいってくるようです。

AW物語 諸戸脩三編

 アイシン精機から分社した時に技術の係長で出向されてきた方です。AWの2代目の社長が”諸戸脩三”です。この方は大変すばらしい方でとても使命を持っていました。自分の役割、オートマチックの目指す姿。

東京に研究所を設けたのもこの人です。三河のゆったりした気候では革新的なアイデアはでない。日本、世界で最先端の技術が集まっている東京に出て最新技術の情報を得なければ革新的なアイデアは出ないとのことで東京に研究所を作ったそうです。

ナビ編でもご紹介しましたが、この方がナビの推進をした人です。ナビの開発し始めは、社内の多くはナビなんかAWがやっても物になるわけない。デンソーや家電メーカーに勝てるわけない。が多数の意見でした。ナビ開発のために子会社も何社かつくり、海外の企業とも技術提携しました。当初はナビにテレビ電話機能も付けることも検討していて、その為には特殊な電子素子が必要でその素子を海外の企業が技術をもっていることでしたが、結局その企業の素子では役割を果たすことができず、当時はテレビ電話は断念しました。そんな状態ですので一部の方からは気が狂ったと思われていたそうです。

 しかしながら大変しつこく進められたので今のAWのナビがあります。AWのナビのシェアは日本ではNO1です。

 それというもの「トップの理解があったから進められた」「トップが見てくれたから頑張れた」と言っていました。

AW物語 海外引合い編

アイシン・ワーナー株式会社(以下AW)はボルグワーナー社とアイシン精機株式会社と50:50の合弁でスタートしました。

ボルグワーナー社とAWと交わした商圏は、AWは日本含めたアジアとし、ボルグワーナーア社は欧米となってたそうです。

当時は日本含めアジアには車は高価であり普及しておらず、イージードライブのオートマチック車はとても普及されると想像できず、ボルグワーナーはアジアは見切り欧米のみ確保したようです。

AWはトヨタ向けのオートマチックトランスミッション(以下A/T)を問題なく供給するのに精一杯でした。特に品質には万全を期して取り組んでました。とても拡販する余裕などない状況でした。

当時の欧米のA/Tはとても品質が悪く

「トルコン車は故障するもの」

と当たり前のように言われてました。

しかしボルボもA/Tを取り入れようとして各カーメーカーのA/Tを調査した結果、トヨタのA/Tが故障しない。品質が良いと評価し、ボルボ社から直接、AWに引き合いがありました。

ボルグワーナー社に状況を説明し納得してもらい、初の海外カーメーカーと1975年に取引が始まりました。

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AW物語 品質至上編

アイシン・エィ・ダブリュ株式会社(以下AW)はアイシン・ワーナーの時代から経営理念を

品質至上

としている。

お客様にご迷惑をかけない。良い品質(機能)の製品を世の中に提供する理念である。

AWで最初に開発し号口化した機種03-55を号口ラインオフし出荷する際に2,000台を全数検査、この時の全数検査は実車に乗せて一定距離を走り確認することであり、大変な工数がかかるが、

お客様にお渡しする製品は、自信をもって良い物をお渡しする。

考えであり、その後もこの姿勢が引き継がれている。

オートマチックはミッションとトルクコンバーター部が合わさっている。(以下A/T)

その為か、昔はトルコン車と言っていた。機構が複雑で、しょっちゅう故障してたそうで「トルコン車は故障する」が定説でしたが、AW製のA/Tは故障をしなかった。そしてトヨタに納入し続けた。

ある時、スウェーデンのボルボがA/T車の設定をしたいが、欧米のA/Tは故障が多い。しかしトヨタのA/Tは故障しないのでAWのA/Tを日本から地球の反対側のスウェーデンに輸入したい。と申し入れがあった。

また、 北欧スウェーデンで寒い時期に車が故障し動かなくなると死ぬことになる。 ボルボは品質に定評のある車なので、故障するA/Tは使えなかったのであろう。

この話を聞いて、私は

「良いものを作れば見てくれる人がいる。」

と知りました。

またAWは世のために良い品質(機能)のA/Tの開発をしました。それは燃費向上です。

最初のA/Tは2速でした。とても燃費が悪いです。マニュアルミッション(以下M/T)はすでに3速また4速があるのに。そこで3速のA/Tを開発し次は4速また5速・・・今は10速まであります。またロスを低減するため、オーバードライブ機工やロックアップ機構さらにスリップ機構など燃費を向上する良い製品を開発し世に提供してきました。

またAWは1977年にデミング賞実施賞を受賞し、1991年に品質管理賞を受賞している。

AW物語 綱引き編

今の立派なアイシン・エィ・ダブリュ株式会社(以下AW)があるのはAW初期の方々が企業風土含め製品を開発してくれたおかげだと思います。特にAWの開発の人たちはすごいです。開発が頑張ったから今のAWがあると思います。

AWの始まりは アイシン精機から分社して ボルグワーナー社と合弁となったので、 得体のしれない会社でありリクルートしてもろくなのが集らなったようです。 当然創業期は優秀な賢い人は入ってこなかったです。

ただ、頑張り、パワーはすごいです。

私の同期の者も何人かいますが、毎日夜の12時を回って仕事をしていました。土曜日は当然毎週、日曜日も出ていました。月の時間外労働時間は200時間を超えていました。200時間というと、毎日11時までやっても月の時間外は100時間しかならなので、休出はあたりまえでした。当然半分ぐらいしか認められなかったです。(今は全部認められてます)ある時は朝の3時まで、その次の日はさらに朝の5時までやって家に風呂に入りに帰ってまた会社に来て、さすがに土曜は2、3時間の残業のようでしたがとても大変そうでした。私はまだ楽な方でして毎日11時、土曜日も毎週出勤していたぐらいです。

そんな開発部隊が頑張っている姿が伝わってくるから、生産部隊もその開発の頑張りに負けないようにと頑張る風土ができています。このように開発と生産がお互いに綱引きするようになっているとどんどん良くなっていきます。これが逆に、開発が楽をしているから生産も楽をしようと引っ張り合いするとだんだん悪くなっていきます。だから開発方にはぜひ頑張って引っ張っていってほしい。

 AWの最初の開発のリーダ、諸戸さんですが、とても素晴らしいひとでした。AWは41年前にアメリカのボルグワーナー社と合弁で始まりました。合弁で始まりましたワーナ社は実は日本に技術を伝える気がなかったようでした。AWの技術者がワーナ社に技術打ち合わせに行ったとき、図面の開示をしてくれませんでした。会議室に物だけ並べられて、ワーナの人は出てってしまし残されたのはAWの技術者だけでした。そんな時、その諸戸さんは突然、白紙にワークを載せ鉛筆でトレースし出しました。このようにワーナ社から技術を盗んで日本で良いA/Tを作れるようになりました。

 AWはアイシン精機の子会社として作られ、作られたときアイシン精機からAWに移った方はすごく屈辱を感じていたようです。だからより一層頑張っていたようです。

 AWがナビを最初に開発していたとき、お客さんトヨタで打ち合わせをして夜8時ぐらいに終わって色々宿題事項をもらいました。すると打ち合わせに一緒にでていた上司が、「よし会社に戻って、打ち合わせをやるぞ!」と言い出し、AWへ戻って9時ぐらいから打ち合わせをして、明日再度報告することになり、明け方まで担当者は内容をまとめることとなって大変だったそうです。しかし翌日に回答の打ち合わせしたので、トヨタ側も完璧な資料は求めていなく報告を聞いてくれコミュニケーションが深まり信頼関係を築けたそうです。

 元トヨタの社長の渡辺さんがAWへ来たときその話をしてくれました。「前日の夜まで打ち合わせをして翌日その質問事項について回答してきて、なんてレスポンスの良い会社だ。目を真っ赤にしてきて、昨日は夜遅くまでやったんだろうな。頑張ったんだな~。」と感心したそうです。

 このように、頑張ればお客さんはその場では言いませんが、心の中では見てくれています。だから、すぐに受注に結び付かなくても気を落とさなく地道に頑張っていきましょう。

AW物語 創業編

AWのgenesisについては前回の「genesis」で書いたが、今回は

AWの創業

について書きます。アイシン・エィ・ダブリュ株式会社(以下AW)は設立時は、アイシン・ワーナー株式会社(以下AW)でした。

アイシン精機と欧米のボルグワーナー社の50:50出資の合弁会社であり両社の名前を取りアイシン・ワーナー株式会社となりました。

AWはオートマチックトランスミッションのみ製造する専門の製造会社として設立されました。設立時はトヨタのトヨグライドを生産しました。このトヨグライドはアイシン精機で生産していたのをAWに移管してきました。トヨグライドの生まれはトヨタ自動車内でしたが、トヨタ自動車の生産拡大の中でトヨグライドが外製化されアイシン精機に移管されました。つまりトヨグライドは

トヨタ自動車→アイシン精機→AW と生産が移ったわけです。

このトヨグライドがボルグワーナー社の技術特許に多数の項目が抵触しており、特許を使うためにボルグワーナー社と合弁として1969年5月に設立スタートしました。

AWの設立時の従業員数は686名でスタートした。中堅の中小企業の規模である。

「設立当時は仕事もなく草むしりばかりしていた。」と先輩が言ってました。

AW物語 genesis編

AWの現在については前回の「序章」で書いたが、今回は

AWが産まれたgenesis(起源)

について書きます。

AWはトヨタ用のオートマチックトランスミッションであるトヨグライドの生産会社として設立されました。

トヨタ自動車 (以下トヨタ) 5代目社長の豊田英二さんが北米に視察に行ったときは既にアメリカはモータリゼーションであり車が沢山走っていた。そして既にオートマチックが搭載されており、

なんてイージードライブな装置だ!。

と感動したそうです。早速日本へ帰ってトヨタの中でオートマチックの開発を始めてトヨグライドを開発した。

トヨグライドはトヨタで生まれトヨタで生産スタートしましたが、トヨタの生産拡大に伴い外製化されトヨタグループのアイシン精機に移管されトヨタ車に搭載されました。

アイ シン精機は豊田英二の従妹であるトヨタ佐助の息子の豊田稔(豊田英二の従妹)が社長をしているトヨタグループである。

ところが、このトヨグライドが欧米のボルグワーナー社の特許に基本的な機構に抵触していることが発覚したので、対応策としてアイシン精機とボルグワーナー社と出資50:50の対等の合弁会社 であるアイシン・ワーナー株式会社(以下AW)を設立し、そのAWへ生産移管された。

トヨタ自動車→アイシン精機→AW

と生産が移ったわけです。

ちなみに、日本ではオートマチック専門会社はAWとJATCO( 日本自動変速機株式会社 )の2社のみで、JATCOもフォードの合弁会社でスタートしております。

AW物語 序章

私のよく知っている超優良企業「アイシン・エィ・ダブリュ株式会社」について超優良となった歴史から背景・理由について物語を書いていきます。

今回は序章として現在のアイシン・エィ・ダブリュ株式会社(以降AW)の概要を記述します。

本社は日本のデンマーク(農業国)と言われる田園の多い安城市にあります。

従業員数は、単独で 18,817名(2018年3月31日現在)

売上高は、単独で 1兆3,843億円(2018年3月期)

と超ビッグな企業でありながら非上場の製造会社です。

取扱品目は、

の製造と販売です。

トヨタグループアイシン精機株式会社の子会社です。

トヨタ自動車からすると、孫会社になります。